ロカ(と知人)の日常

美少女ゲームの批評、創作等

『乙女理論とその周辺』総括批評

《100点》

 

私は本当に悔しい!大変に気分が悪い!

何故か?発売から十年以上経ったのに『乙女理論とその周辺』における”脚本家の美しさ”に誰一人として気付かない事が。この作品は紛う事無き傑作であるのに!人生レベルで執着する程に私は悔しいから、購入者の一人としてこうして批評する事で皆に気付かせることに決めた。

 

 

(以下、ネタバレ有りです。ご注意ください)

 

点数を付けるなら文句なしの百点。私は脚本以外の審美眼に欠けるので、基本的には脚本だけの評価である。

 

誰も気がつかない美しさ…という事は私が気付いたのは即ち「新しい美」であると思われます。

新しい美を説明するには、どうしても文字数が多くなるがご容赦願いたい(結果、総文字数約1.8万字)。

批評の流れとしては、上から順に

 

一、結論(脚本家の美しさとは何か?)

二、キーとなる登場人物と小説

三、乙りろは『赤と黒』のオマージュである

四、本作における『リリアーヌ』『赤と黒』の重要性

五、リリアーヌとマチルド…リリアは乙りろ第4のメインヒロイン

六、意図的に隠された背景・脚本家の配慮と建前・私見

七、本音…脚本家はこんなシナリオを執筆したかったはず

八、総括…何故私はこのような見方をしたのか等

九、リリアーヌ√を殺したのは誰か

十、終わりに(私の美意識と余談)

 

…という流れです。文末表現が全く安定しませんが、その手直しはもう諦めました。よろしくお願いします(なおこの批評は、シナリオガチ勢向けの文章です)。

 

 

一、結論

 

では早速結論から述べましょう。

私が言う脚本家の美しさとは何か?

それは

 

【購入者の方々に乙りろを楽しんで頂けるようにする】

 

である。

 

『そんなの当たり前じゃん!』『こっちはりそな√を楽しみにして買ったんだから!』

そう思われて然るべきかと。何故ならエロゲは商業作品であり、一作品でも不評を買ったり売れなかったりしたら会社自体が倒産するかもしれないからだ(エロゲ業界自体が斜陽だから尚更)。

 

「お客様に作品を楽しんで頂けるように制作する」

 

至極当たり前な事である。

 

だが、脚本を詳しく調べていくうちに、私は本作の脚本全編を担当された東ノ助氏(以下、氏)にはその点で大いなる葛藤があったのではないかと結論付けた。

 

その葛藤とは、

「《氏が書きたいと思う楽しさ(面白さ)》と、《お客様が求める楽しさ(面白さ)》との乖離をどう受け止めるか」である。

 

勿論、脚本家が思う面白さとお客様が求める面白さが同じである事が理想ではある。

 

だが大抵の場合、面白さというのは必ずしも一致しない事を脚本家は嫌でも自覚させられる。脚本家自身が面白いと思うシナリオ構成が、社内会議であっけなく没にされる。その時に、全ての責任を背負う覚悟で意地でも主張を通すか(これはエロゲメーカーの中ではほぼないと思われる…社長でありライターでもある某有名企業以外は…)、上手く折り合いを付けるか、それとも完全に捨てるか…

 

「わたし(氏)は本当ならこんなシナリオを書きたい。けどお客様はそれを望んでなどいない…」

 

私は本作において、その葛藤が顕著に出ていたと感じました。

 

ちなみに、「こんなシナリオを書きたかった」のこんなとはズバリ…

 

”リリアーヌ√”です。

 

 

 

二、キーとなる登場人物と小説

 

では、どの部分を見てそう感じたか。

そこでキーとなるのが以下の登場人物と小説である。

それは

 

・『リリアーヌ』(乙りろのサブキャラ)

・『赤と黒』(スタンダール作の小説。作者はフランス産まれ)

 

である。リリアーヌ√と書いているのでまあ当然彼女はキーとなってきます。

 

 

さて、リリアーヌと言えば作中では

 

カーストを作って自分の手を汚さずにりそなをいじめる。りそなが触っただけで飼い犬を処分。金でクラスメートを買収し、田舎者であるメリルの衣装を従者に処分するよう指示し実行させる。りそなが必要な糸を買い占める …》

 

という、本作において悪役的ポジションのサブキャラである。とは言え、例の覚醒位は覚えている人も多いのではないか。

 

そしてもう一つの小説であるが…

読者の方々は、(作中)一月上旬に行われたデザインコンペにて、リリアーヌが描いたデザインを覚えているだろうか?そして、そのデザインのモチーフを覚えているだろうか?

 

恐らく誰も覚えてなどいないだろう。何せ『赤と黒』について購入者の誰一人として自身の感想に入れていないのだから。

 

 

以下、乙りろからの引用

 

《リリアーヌ》「『赤と黒』に登場するマチルドをイメージした『愛』です」

《リリアーヌ》「彼女の愛は苛烈かつ純情であったと私は思います。私はまだ初恋を知りませんが、だからこそまだ知らぬ恋に憧れる余地はあると思います」

 

そう。『赤と黒』という小説は、リリアーヌのデザインのイメージに用いられているのだ。

 

 

では、この『赤と黒』という小説は一体何なのか。

 

実在の事件が元になったこの小説。舞台は、ナポレオン・ボナパルトによる帝政が崩壊し、ブルボン朝王政復古の時代になった1800年代初頭のフランス。

 

この小説には多数の人物が登場するが、その中でも注目して欲しいのが以下の三名である。

 

・ジュリアン(主人公、貧しい製材屋の末息子で野心家、レーナル夫人・マチルドと関係を持つ)

・レーナル夫人(当時家庭教師だった主人公と不倫関係)

・マチルド(ラ・モーヌ公爵家令嬢、召使いとなった主人公を見下す)

 

物語のあらすじは、超ざっくりと説明するなら

「貧しい家庭に産まれたジュリアンという青年が、町長の妻であるレーナル夫人、そして公爵家令嬢のマチルドとの恋路を描いた物語」

 

という不倫系恋愛小説です。当時のフランス史も物語に反映されていますので面白いですよ。詳しいあらすじに関しては是非ウィキペディア等をご覧下さい。

 

以上、サブキャラであるリリアーヌと、小説『赤と黒』が本批評の鍵となります。

 

ここからは、これら一人の人物と小説が本作でどのような役割を果たしたのか、私と共に見ていきましょう。

 

 

注)以下、必要に応じてスタンダール作『赤と黒』(この小説は「上」と「下」の二つある)を引用する。この小説の日本語訳は現時点で三つある。今回は1957年に新潮文庫から発売された小林正訳を採用する。

 

 

 

 

三、乙りろは『赤と黒』のオマージュである

 

結論から述べると、「『乙りろ』(一部『つり乙』も)は『赤と黒』のオマージュ」だと思われる。リリアーヌのデザインのモチーフに用いられたのは無論、フランスを舞台に物語が展開されていくのは両作品とも同じである。だがそれ以外にもあるのだ。

 

以下、乙りろとつり乙が、『赤と黒』から影響を受けたのではないかと思われる点を挙げる。

 

1,リリアーヌ・遊星・りそな・(エッテとメリル)のキャラ設定

2,リリアーヌの口癖である「真心を込めて」

3,リリアーヌの日本嫌い

4,リンデやヴァレリアの国籍

5,遊星と屋根裏部屋

6,遊星は愛人の子である

7,大蔵家のお家騒動

 

見ての通り七つと非常に多い。以下、三の文章はこれら7つの点について詳しく見ていく。文量が多くなるので興味が無ければ読み飛ばして四の文章を読んで貰って構わない。つまるところ、私が読み取れるだけでもこれだけの影響を受けたのではないかという事なので。

 

 

1,リリアーヌ・りそな・遊星(・メリルとエッテ)のキャラ設定

 

赤と黒』は乙りろのキャラ設定にも多分に影響を与えていると思われる。以下、三人のキャラ設定において参考にしたであろうキャラを掲載する(矢印の左側は『乙りろ』、右側は『赤と黒』)。

 

・リリアーヌ → マチルド

・大蔵りそな → レーナル夫人

・遊星(朝日)→ ジュリアン

 

リリアーヌはマチルドで確定だろう。彼女自身がデザインのモチーフとしてマチルドを使っている事や二人の身分が似ている事からも明らかだ。また性格も似ていて、マチルドは傲慢で自分よりも下の人を見下す性格である。リリアーヌは…言うまでもない。

 

では、りそなと遊星はどうだろう。

 

赤と黒』においてレナール夫人は、ジュリアンと不倫関係でこれは”禁じられた恋”と言えるでしょう。

 

一方りそなは、遊星とは不倫関係ではない。

だが、二人の恋は”禁じられた恋(近親恋愛)”である。

 

それは、遊星自身もりそな√にて

 

《遊星》「(私とりそなが付き合う事について)大変な不義をお詫びいたします。世間的に認められてないことも理解しています」

 

と言っている事からも、不倫と同等にタブーだという認識で間違いない。性別も合っているし(レーナル夫人は女、ジュリアンは男である。りそなは女、遊星も男である、朝日は…)おおよそ、参考にしたのではないか。

 

ちなみにジュリアンは、元はナポレオンにあこがれて軍人志望でした。ですが復古王政により階級社会となり、彼は出世するために聖職者を志します。

 

遊星も以前酒蔵で戦っていましたよね?(つり乙参照)その時に助けてくれたのがジャンです。

そして今ではジャンにあこがれて服飾の道に進むため、女装して身分を偽っているのです。自分自身の夢のために。

 

そこからも遊星がジュリアンではないのかと思った次第です。

 

 

ちなみに、上記三名以外だと、(確証は持てないが)メリルとエッテのキャラ設定も本小説を参考にしているものだと思われる。

 

それは『赤と黒(上)』105頁、第十二章 旅行 から窺い知れる。

作者はまず、”シエース”(作者の生きた時代と同じ頃の仏出身)の一文を引用して第十二章の物語をスタートするのだが、その一文が興味深い。

 

『パリには伊達者がいるが、田舎には気骨のある人間がいるかもしれない。』

 

 

『パリには伊達者がいる』

伊達者とは、「人目につく、しゃれた身なりの人。特に、いきでおしゃれな男性(デジタル大辞泉)」と書かれてある。

 

”伊達者”という言葉は男性に用いられるのだが、私には『パリには伊達者がいる』の文章が何となくエッテっぽいなと感じた。パリ在住だし、身なりもおしゃれ(あくまで個人的感想です)だし、メリルに対しての態度は粋だなと感じるし(彼女のために服飾専攻にしたところとか)。

 

…少し私の考えすぎだろうか。

 

あるいは単にアンソニーかもしれない。あの男はまさに伊達者っぽいし…そこはよく分かりません。

 

一方で

 

『田舎には気骨のある人間がいるかもしれない』

 

私がパッと思いついたのは、田舎のサヴォア出身であるメリルである。メリルも充分に気骨のある人間と言えるのではないか。

 

何せ、りそな√にてショーで慌てるリリアーヌに対して

 

《メリル》「私、本当のことを言えば、最初に見た時から不思議でした。どうしてリリアーヌ様のデザインで最優秀賞を取ることができたんだろうって」

《メリル》「賞を取りつづけてきたのは、華花さんが苦しんで、型紙と縫製の力で良い衣装を仕上げていたんです。あの人は天才です。あなたにとって、華花さんは生命線だったんです」

 

と彼女に言い放ちますからね。従者身分で。この言葉が言えるのは余程気骨のある人間じゃないと無理ですよ。

 

その他のキャラは…分かりませんね。部分的には参考にしたんだなと思うキャラもいるにはいますが…この批評で触れる事は控えましょう。

 

 

2,リリアーヌの口癖である「真心を込めて」

 

「真心を込めて」という彼女の口癖は読者の方々も記憶に残っていると思う。その口癖というのも、実は『赤と黒』に頻出する言葉である。

 

一例を挙げるならば…(『赤と黒(上)』266頁)

 

『《(中略)その天職と称するものが永続的かどうか?真心から出たものかどうか》「真心から出た、か!」と、ピラール神父は、びっくりした顔つきでジュリアンを見つめながら、繰り返して言った。(中略)「真心から出た、か!」低い声でくり返しながら、また先を読みつづけた』

 

他にも『真心』という言葉は随所に書かれている。脚本家の印象にも強く残ったのだろう。

 

 

3,リリアーヌの日本嫌い

 

リリアーヌは、幼少期の真心事件により日本が特に嫌いである。

 

これにも理由はあると思われる。

それは『赤と黒』の小説に出てくるこの一文ある。

 

「マチルドはこの青い(日本製の)花瓶をことのほか汚らしいと思っていたので、こわれたのを見て内心大いに喜びながら、母親の動作を見守っていた(『赤と黒(下)』第二十章 日本製の花瓶 236頁)」

 

この文章を参考にしたに違いない。

 

従者の華花が日本人ではなく中国人なのは恐らくそのためだろう。日本人は嫌だけど中国人なら仕方ない…って感じかと。欧州の人から見れば、日本人も中国人も同じに見えると思うし、中国は日本と同じくアジア有数の国だから。…こんなこと言ったら右に怒られるのかも(苦笑)

 

 

4,リンデとヴァレリアの国籍

 

作中における二人の国籍は

 

・リンデ   → ドイツ…①

・ヴァレリア → ロシア…②

 

である。では何故国籍がドイツとロシアなのか。

 

①の理由

赤と黒』に出てくる”密書事件”(実際に起こった陰謀が元になっている)にて侯爵に頼まれたジュリアンが大使に手紙を届けた場所はマインツ…つまりドイツである。ここからリンデの国籍が決められたのではないか。

 

②の理由

手紙を届けた後に、ジュリアンはその人に命じられるままストラスブールで待機していたけど、その場所で再会したロシア人公爵から恋の手ほどきを授かった。彼は教えて貰った手ほどきを実行してマチルドを焦らしに焦らし、恋路を成就させる事に成功した。

公爵の国籍はロシア…ここからヴァレリアの国籍が決められたのではないか。

 

二人がイタリア人やスペイン人でないのは、恐らく上記理由からだと思われる。

 

 

 

5,遊星と屋根裏部屋

 

『つり乙』の最序盤。走馬燈編にて、遊星は過去に大蔵家の屋敷で《屋根裏部屋》に閉じ込められていた。

実はジュリアンも、ラモール家に秘書として来た際、ラモール家主人から与えられた部屋も《屋根裏部屋》だった(『赤と黒(下)』28頁)。

 

 

6,遊星は愛人の子である

 

遊星は、父親が大蔵真星で母親は本妻の金子ではなくアイルランド系の女性…つまり愛人の子である。

 

ジュリアンは愛人の子ではないが、彼はラモール家に来てから暫くして、とある事件がきっかけで愛人の子として振る舞う事になる。

 

彼はラモール家の秘書として務めていた際、ひょんな事から従男爵と決闘する事になる。

その決闘はすがすがしいものだったが、従男爵からするとジュリアンのような秘書分際と決闘したと知れ渡ったら、大恥をかくことになる。

だから、従男爵はジュリアンを『(ジュリアンは)むろんりっぱな青年ではあるが、ラ・モール侯爵の親友の私生児なのだと、あちらこちら吹聴してまわった(『赤と黒(下)』75頁)』と書かれてある。

ジュリアンはその吹聴に乗った…その方が彼や主人にとって都合が良かったから。

つまりジュリアンも遊星と同じく貴族身分の愛人の子として振る舞った…という訳だ。当時の身分制度は厳格故に、百姓身分なんかより貴族身分の私生児(愛人の子)の方が良いに決まっているのだから。

 

この部分を参考に、遊星は愛人の子であるという設定が決まったのではないか。

 

7,大蔵家のお家騒動

 

大蔵家のお家騒動も、見方によっては政治的な部分だなと思います。このゲームは恋愛ゲームですから、いきなり政治的な部分を見せられると「えぇ…」となるものです。ですが大蔵家を舞台にしたお家騒動なので、エンタメとして楽しめる訳ですね。

 

赤と黒』のように史実を元にしたバリバリ政治的な文章(密書事件のことです)を追加してもしょうがないので、お家騒動という形を取ったのでしょうか。これなら購入者も《音楽会の最中にピストルがぶっ放された(『赤と黒(下)』250頁)ような不快な気持ちにはならないですし。

恐らく氏は、スタンダールが政治的な史実を取り入れた事に感銘を受けて真似をしたのだと思います。でも単に政治的な話をしたらつまらないし不評を買ってしまう。だから大蔵家のお家騒動という形を取ったのでしょう。

 

 

ちなみに前作『つり乙』でも見方によっては政治的発言にも取られる箇所があります。

それは序盤にて、朝日が初めて瑞穂に会った時の台詞です。

 

《花之宮瑞穂》「構いません、もうお顔もお名前も覚えました。あさひさん、ですね。旭日の旗を象徴するような、我が国の女性に相応しい素敵なお名前ですね。あさひさんと呼んでも良いでしょうか」

《花之宮瑞穂》「それでは日章旗をお名前とされているのですね。とても素晴らしいことだと思います」

 

『旭日の旗』とか『日章旗』とか、見方によってはかなり政治的な発言ですね。

この発言も、もしかしたら『赤と黒』から影響を受けて取り入れたのかもしれませんね。上記5と6から見ても『つり乙』も一部影響を受けていると見て取れるので、少しは説得力の足しになりそうです。

 

 

以上七つを見てきた。七つはどれも「そう読み取れないこともないよね」という内容なので当然本当かどうか分からないが、『乙りろ』は『赤と黒』から多少なりとも影響を受けているのではないかと私は感じた。オマージュだと言い切りたいところだが…公式が言わないので言い切るのは控えるか。

 

 

 

四、本作における『リリアーヌ』『赤と黒』の重要性

 

このように、私が調べただけでも乙りろが『赤と黒』から多大な影響を受けている事が分かると思う。そしてサブキャラであるリリアーヌの重要性も理解して頂けたら。何せ、彼女のモチーフとなったキャラは『赤と黒』のメインヒロインのうちの一人であるマチルドなのですから(もう一人のレーナル夫人は、恐らくりそなのキャラ設定に影響を与えているはず)。

 

私が最初不思議に感じたのは(これは先程も言ったのだが)、『赤と黒』について購入者の誰一人として感想に入れていない事である。ま、当の私も初見プレイ時には印象にすら残らなかったので仕方ないと言えば仕方ない…そしてそれこそ脚本家である氏の狙いでもあったのだが、それは後述する。

 

 

五、リリアーヌとマチルド…リリアは乙りろ第4のメインヒロイン

 

リリアーヌがデザインコンペにて、自らのデザインのモチーフにした『マチルド』という女性…

 

私が思うに『赤と黒』に登場するマチルドは

 

・身分(家柄)を大事にする

・退屈な人生を歩みたくない

・とにかく自尊心を傷つけられたくない

 

という三つの信念がとにかく尋常ではありません。

 

マチルドは、自分より身分が低い召使いのジュリアンに、他の貴族の男性(しかもこの中には彼女の婚約者候補もいる)とは違う非凡なものを見いだします。

ですが、所詮召使い如きの彼に(恋愛面も含めて全部!)支配されるのが、マチルドにとって何よりも耐えられない事だったのです。

 

そんなマチルドをリリアーヌは自らのデザインのモチーフにした訳です。なので彼女の√を考えるとするなら、朝日はメイド身分(しかも日本人)ですので相当見下してくると思います。メンタルズタズタ、死にたくなるレベルで。

 

はい。あの…私は『赤と黒』を熟読したので分かるのですが、マチルドの言動には正直メンタル終わりかけました(苦笑)。なので、ヒロインの言動に対して直ぐにお気持ちしてしまう人には無理です。死にます。

だけど、マチルドとの恋路で見られる駆け引きは本当に面白かったです。既存のエロゲ作品では見たことのないような展開で、私とて先が読めませんでした。それくらい面白いのです。

 

だから『赤と黒』を熟読したであろう脚本家の東ノ助氏なら、間違いなく一瞬だけでもこう思うはずです。

 

「『赤と黒』に登場するマチルドを参考にしたキャラを『乙りろ』にも加えたい。絶対に面白いから!」

 

と。結果、マチルドを参考にリリアーヌが創られた(と思われる)訳です。ただ彼女の√が作られる事は無く、サブキャラ(悪役)止まりとなった…

 

ここに至るまでの氏の苦悩は、かなりのものがあったと思いますね。(Navelのライターとしてではなく、一創作者としての本心では)泣く泣く却下したのではないでしょうか。

 

私は思うのです。

「氏は、心の奥底ではリリアーヌを”第4のメインヒロイン”にしたかったのではないか」と。

 

その証拠となり得るのは、先程から話してきた『赤と黒』以外にもう一つあります。

 

それは『音楽鑑賞モード』です。

 

『Gallery』モードの音楽鑑賞をクリックすると、本作品に用いられているBGMや音楽を聴くことが出来ます。

 

その音楽鑑賞モードには全部で十八曲収録されています。

左上の三つは上から順に

 

・ゴシック†ロリィタ†プリンセス(りそなの曲)

・光を(メリルの曲)

・メヌエッテ(エッテの曲)

 

というメインヒロインのテーマ曲です。

 

メヌエッテの曲の下は、サブキャラであるリリアーヌ(あの日生まれた真心を込めて)のテーマ曲である。そしてその下は(パリと乙女と恋するなにか)である。これは日常のBGMとして用いられている。

 

ここまでなら何の違和感もなさそうだが、私が疑問に感じた点はここにある。普通、サブキャラのテーマ曲の下は、もう一人のサブキャラのテーマ曲が来るのではないかと。

 

そのサブキャラとは、リンデである。彼女のテーマ曲は(ゲルマニズム・ミニマル)だが、その曲の配置は上から順に

 

・メヌエッテ(エッテの曲)

・あの日生まれた真心を込めて(リリアーヌの曲)

・パリと乙女と恋するなにか(日常BGM)

・モンパルナスで途方に暮れる(日常BGM)

・ゲルマニズム・ミニマル(リンデの曲)←←←←←ココ!

・地下アトリエのパリジェンヌ(たち)(起死回生系BGM)

 

である。私はこの配列は不自然だと感じた。

普通は、「メインヒロイン三人のテーマ曲→サブキャラ二人のテーマ曲→日常BGM」だと思うのだが、敢えてリリアーヌとリンデの曲の間に日常BGMを持ってくるという配列。

 

リリアーヌとリンデは同じサブキャラだが、明確な差があるのではないか。実際、リリアーヌには例の覚醒時のBGMである(パンがなければ飢え死にすればいいじゃない)がある事からも窺い知れる。

 

この

 

・あの日生まれた真心を込めて

・パンがなければ飢え死にすればいいじゃない

 

という、メインヒロインでもないのに二曲のテーマ曲がある時点でリリアーヌは特別なキャラクターだったのではないかと思うのです。そして彼女のテーマ曲はメインヒロインのすぐ下にある…

 

 

私は、だからリリアーヌは”乙りろ第4のメインヒロイン”だと思うのです…結局それは幻となりましたけどね。

 

 

 

…でもまあ、リリアーヌは『乙りろ』ではサブキャラでおおよそ悪役です。

 

ですが、”純粋な悪役か”については疑問に感じます。もしそうだとしたら、りそな√のED後にて、放逐され衣遠によって保護された華花がリリアーヌの事を想うような言葉ををわざわざ言わないと私は思いますが…如何でしょうか?

 

赤と黒』を参考に、リリアーヌの人となりや思考を考えてみるのも面白いですよ。

 

 

六、意図的に隠された背景・脚本家の建前・私見

 

1、意図的に隠された背景

 

ここまでの内容は主に『赤と黒』『リリアーヌ』について話してきたが、結局『赤と黒』は、本作では以下の文章しか出てこない。

 

《リリアーヌ》「『赤と黒』に登場するマチルドをイメージした『愛』です」

《リリアーヌ》「彼女の愛は苛烈かつ純情であったと私は思います。私はまだ初恋を知りませんが、だからこそまだ知らぬ恋に憧れる余地はあると思います」

 

だけである。

 

またリリアーヌに関しても、本作では個別√もなくただのサブキャラである。

 

では何故、こんなにも重要な『赤と黒』はたった三行だけ書かれてあるだけで隠されたのか。そしてリリアーヌ√は消滅したのか。

 

 

2、脚本家の配慮と建前

 

○『赤と黒』を隠した理由

 

これは、お客様に対しての配慮からでしょうね。以下の三つだと思われます。

 

・リリアーヌが悪役だと推測されないようにするため

・『赤と黒』をただの作り話だと認識させるため

・お客様は「朝日(遊星)とりそなの恋愛模様」を望んでいるから

 

まず一つ目に、あのデザインコンペの時点でリリアーヌが悪役だと推測されかねないからです。マチルドを調べたら、相当傲慢な女ですからね…そんな女をイメージしたデザインなので…はい。

そして二つ目に、読者に『赤と黒』は大した物語ではないと認識させるためでしょうか。作中に登場した『赤と黒』『マチルド』だけなら、脚本家が作った”架空の物語”として認識されるかもしれない。これが主人公の『ジュリアン』や作者の『スタンダール』を入れてしまうとその認識は非常に困難となったでしょうね。

この小説のあらすじを全く説明しなかったのも、そのためなのでしょう。サラっと流して、リンデから『それだけか?』と言われて終わりという形を取ったのでしょう。…個人的には「必ずしも努力は報われない」というメッセージ性が出ていて良かったですね。

 

三つ目は、「朝日(遊星)とりそなの恋愛模様」をお客様は望んでいるから。『赤と黒』の小説なんて誰も興味無いという訳です。

 

 

○リリアーヌ√を捨てた理由

 

この理由は主に二つです。 

…とはいえそれは脚本家にとっては建前でしょうが。

 

・お客様が望んでいないから

・衣装テーマの『愛』に相応しくないから

 

一つ目の、お客様が望んでいないから。

これは簡単で、個別√に入ってヒロインから見下されたりバカにされたりプライドを粉々にされる言動をしてきたら…堪えますし、そんなの求めていないという理由からでしょう。つまり大不評を買うから!

 

二つ目は、衣装テーマの『愛』に相応しくないから

 

『愛』と言っても、恋愛や友愛、家族愛と色々ありますが、ここで紹介する愛は恋愛を意味します。

 

さて、ここではそんな『愛』について、リリアーヌとりそなの考え方を『赤と黒』にて二人のキャラ設定の参考になったであろう《マチルド》《レーナル夫人》を参考にしつつ見ていきましょう。

 

りそなの愛は、”純粋な愛”です。近親相愛という禁断の愛ではあるが純粋に愛した様はりそな√からも分かります。同じく禁断の愛である不倫をしたレーナル夫人もジュリアンを純粋に愛していました。

 

一方でもしリリアーヌ√があったのならば、リリアーヌの愛は”理性的な愛”として表現されたでしょう。これは、マチルドの恋路があまりにも理性に従った愛だったからです。愛に人生を振り回されたくない、愛のせいで自身のプライドを傷付けられたくないといった愛は、まさしく”理性的な愛”と言えるのではないでしょうか。

 

ちなみに本作のリリアーヌは、コレクションのテーマが『愛』と決まる12月の終業式当日までは、大蔵家の縁談に否定的でした。それが翌年1月の始業式では大蔵家の人間か来ずにとても残念がっていました。…これは私の考察なのですが、リリアーヌはコレクションのテーマである『愛』を知るために、まだ見ぬ相手(まあ、その相手は遊星なのですが)を本気で愛してみようと思ったのではないでしょうか。

つまりこれは、コレクションのテーマである『愛』を知りたいという目的から始まった愛…すなわち”理性的な愛”と言えるのではないでしょうか。

 

 

余談ですが、『赤と黒』の主人公であるジュリアンは、(紆余曲折ありつつも)最終的には純粋に愛してくれたレーナル夫人を愛していました。理性的な愛は純粋な愛に負けるのです。

 

だからデザインコンペにおいて、リリアーヌのデザインは他二人に比べると印象にも残らずに「つまらない」と(心の中で)遊星から酷評されたのでしょう。彼女のデザインはまさしく”理性的な愛”を表現していたのだから…

 

 

3、私見(建前を踏まえた上で、批評)

 

赤と黒』が隠された背景は、お客様の事を第一に考えた素晴らしい配慮だと思います。美しいですね。

 

ただ、リリアーヌ√を捨てた事に関しては、私とて簡単に引き下がる訳にはいきません。あんなにも面白かったはずであろう√を捨てるなんて勿体ない!

 

でも、彼女の√はりそな√に匹敵する面白さの代わりに不評を買うのは必至です。見下されますから。…ではどうしたら良いのか。

 

答えは簡単。そのまま使っちゃえば良いのです。リリアーヌから見下されますが、そんなの関係ない…それこそまさに”理性的な愛”を表現してるのだから。

 

このように、理性的な愛を貫いたであろうリリアーヌとの対比で、純粋な愛を貫くりそなをより一層際立たせるシナリオも有りだったのではないか。

そうすれば、りそなはもっと輝けたのではないか。

購入者が求めているのは、りそなと遊星が幸せを掴む事である(…ですよね?)。余程の捻くれ者でも無い限り、りそな√におけるバッドエンドなんて求めていないので、無意識の内にご都合主義展開を望んでいると思われますから。…だったら個別√にてリリアーヌが悪役だとバレて良いのではないか、どうせハッピーエンドになるんだし(暴論)。

メリル、エッテ√では、りそなが抱く"純粋な愛"の強さとはどれ程のものかを充分に知らしめる事は出来なかったと思う(メリルは純粋無垢だし、エッテ√は短いし)。また、りそな√におけるリリアーヌの立ち振る舞いは、”理性的な愛”を表現するまでには至らなかったのではないかと。だたの悪役ポジでしたし。

 

そこでリリアーヌ√を加えて彼女の”理性的な愛”とで対比させれば、より一層”純粋な愛”の尊さが伝わったのではないか。その時、『乙りろ』はつり乙の次回作とは誰にも言わせない破壊力ある神作へと変貌したのではないか。…そんな世界線を私は見てみたかったりする。

 

…このような私の意見はまさに”痛みを伴う劇薬”であり、お客様を置き去りにして作品の面白さや完成度を追い求めるとこうなりますよって事ですね。このような意見、どうでしょうか?…これが《脚本家が思う面白さ》だと個人的には思いますよ。

 

この六でやってきた事というのは、氏の脚本家としての"建前"(より良い商業作品を作る、ユーザーや会社の事を第一に考える等)の部分を私が批評してきました。なので、氏としての"本音"は絶対に違うと思うんですよね。

やはりリリアーヌ√はやりたかったと思います。だって本作が『赤と黒』のオマージュならば、リリアーヌのデザインイメージになったマチルドからも多分に影響されているはずですから。

 

 

七、脚本家はこんなシナリオを執筆したかったはず

 

脚本家自身が面白いと思うシナリオ構成が、社内会議であっけなく没にされる。その時にどうするか?

 

プロの脚本家の選択は、主に二つ

 

・折り合いを付ける

・完全に捨てる

 

のうちから選ぶかと思われます。では『乙りろ』にて折り合いを付けた点と完全に捨てた点は何だったのか。

 

・折り合いを付けた点

これは大蔵家のお家騒動でしょうね。政治的な発言をお家騒動というエンタメに変えた点では私としても高評価です。これなら《音楽会の最中にピストルがぶっ放されたような不快な気持ちにはならないですからね。素晴らしいシナリオ構成だと思います。

 

・完全に捨てた点

これはもう、言うまでもなくリリアーヌ√でしょう。あんなにも可能性の塊だった√を捨てるのは(Navelの脚本家としてではなく)一創作者の本能としては断腸の思いだったでしょうから。

 

もしも、りそな√が『赤と黒』における「ジュリアンとレーナル夫人の禁断の愛」に影響されたとしたら…

リリアーヌ√は(私の想像ですが)『赤と黒』における「ジュリアンとマチルドのマウント取り合い合戦の末の愛」のような感じになったのかもしれませんね。

 

 

ちなみに私は『赤と黒』のメインヒロインである二人《レーナル夫人》と《マチルド》のうち、どちらの恋路が面白かったかで言えば、マチルドだと即答します。あんな恋路は初めて見た。既存のエロゲではまず却下されるシナリオ構成なのだから当然ではある。だから私は1830年に発行された小説『赤と黒』の構成に新鮮味を覚えたのです。なんだ、エロゲって可能性の塊じゃん…まだまだ開拓の余地あるじゃん!…と。でも、何度でも言いますが、そんなシナリオ構成をお客様は望んでなどいません。

 

 

当たり前ですが、脚本家は私のこのような拙い意見は百も承知でしょう。その上で発売されたのが『乙女理論とその周辺』なのです。

 

脚本家の自我を封印し、お客様に寄り添った結果高い評価を得た作品…

 

私は氏のそんな姿勢を美しいと評価します。

 

 

 

 

八、総括…何故私はこのような見方をしたのか等

 

さて、話は変わりまして…三月下旬に桜小路家一行が短期留学と称してパリを訪れます。その際にユルシュールは(と言ってもこれまた誰も覚えていないでしょうが)学院のサロンにてこう言います。

 

《ユルシュール》「衣装をお芝居にたとえれば、デザインが役者なら型紙は脚本」

 

言い得て妙ですね。役者を生かすも殺すも脚本(家)次第という訳です。

 

このユルシュールの言葉通りに、脚本家=型紙(パタンナー)として見て頂きたい言葉が、(作中)二月上旬にメイド達だけで話していた際にリリアーヌの従者である華花が言った次の台詞です。

 

《華花》「あれ(デザイナー)はだって才能(センス)9割、技術(スキル)1割の世界でしょう。その点パタンナーなら才能1割、技術9割でも務める事が出来ます」

 

つまり、脚本家とは九割が(努力で身につけられる)技術で善し悪しが決まるのである(と脚本家である東ノ助氏は言っている)。

 

それを踏まえた上で、リリア覚醒時に朝日が言った台詞を見ていきたい。

 

《朝日》「あの衣装を見ればわかるはずです。(華花さんは)見返りなんて求めない、あんな細かい直しを…誰に気付かれなくても構わない、ただあなたを輝かせるために続けていたのがわからなかったんですか?」

 

ユーシェが言ったように、デザイナーが「役者」で、型紙が「脚本家」なら。

 

朝日は型紙なので「脚本家」と言えますね。この台詞、脚本家目線で見ると中々に面白い文章だなと思います。

 

本作の脚本家である東ノ助氏目線で、朝日が言った言葉を訳してみましょう。

 

「シナリオの細かいところまで拘る、それは決して見返り…評価される事がなくても構わないし、誰に気付かれなくて構わない、ただ『乙女理論とその周辺』という作品を輝かせるために必要な事なのです」

 

この文章を読者の方々がどう感じたかはさておき…私としては、特に『赤と黒』に関して本当に誰にも気付かれずに発売から十年以上が経過した事に驚きましたね。まあこの作品はシナリオ考察勢を対象にはしていないので、脚本家の意図通りになったという訳です。私という例外を除いては。

 

さて、氏が抱いたであろう葛藤を再度掲載して、これを総括とさせて頂きます。

 

「《氏が書きたいと思う楽しさ(面白さ)》と、《お客様が求める楽しさ(面白さ)》との乖離をどう受け止めるか」

 

その葛藤に対する答えは、恐らくこれでしょう。

 

《お客様が求める楽しさを第一に、氏が書きたいと思う楽しさを表現しそれを楽しんで頂く》

 

それがお金を頂くプロの脚本家としての矜持なのでしょうね。いやはや素晴らしいです。私は脚本家の東ノ助氏を尊敬します。

 

 

 

…さて、ここからは私の感想を少しだけ。

私が初見プレイで抱いた本作品の感想にて、メインヒロインについての言及は「エッテ√のシナリオが少なすぎる!」以外何もありませんでした。りそなやメリルについての言及は0文字です。

 

では何を書いたかというと、終盤にて家族愛の大事さを思い知った大蔵家と、全てが終わった後に友愛について気付かされたリリアーヌと華花の対比が素晴らしかった…という事を書いていました。先に言っておきますが、メインヒロインに触れない感想はこれだけです。…まあ、エロが薄かったというのもありますが(苦笑)

 

そこから私は、「何故華花は放逐された後もリリアーヌを想い続けたのか」が気になって二人を深く調べるうちに、『赤と黒』に行き着きました。そこから小説を買って熟読した結果『乙りろ』との関連性が高いと判断し、こうして批評する事にしました。本当に面白かったです。これこそシナリオ考察の醍醐味だなと本気で実感しました。

 

後言っておくと、私はリリアーヌが好きではありません。もう懲り懲りです。それと「エッテ√のシナリオが少なすぎる!」と書いた割には、書きながら聴いている曲はメヌエッテです。めっちゃ良い。

 

 

 

九 リリアーヌ√を殺したのは誰か

 

リリアーヌは幻の乙りろ第4のヒロインだった。私はそう思います。

 

メインヒロインの人数は、前作つり乙が四人で次回作のつり乙2も四人だった事を踏まえると、乙りろの三人(しかもエッテ√は実質サブ扱いレベルの文量)は些か少ないのではと思うのは私だけだろうか。

 

もしかしたら予算的に厳しかったのかもしれない。流石に台所事情までは私には分からない。

 

でも、そうではないとしたら……少々過激ではあるが、リリアーヌ√を殺したのはお客様ではないか。

 

お客様は『乙りろ』に何を求めたのだろうか。『乙りろ』は『つり乙』の後継作品なので、やっぱり安定志向になるのだろうか。もしくは安定の上に(想定内の)新奇的なシナリオを盛り込んで欲しいと思うのか。「りそな√が良ければ、後は余計なことをしなくていい」と思うのか。

 

実際、それが大半なのでしょう。面白さのために不評を買うような√なんて誰も望んでなどいなかったでしょうし。

本作のブランドであるNavelも老舗企業ですから、ユーザーの意図が分からないはずがありません。

 

結果的に『乙女理論とその周辺』はユーザーから高い評価を得る事に成功します。Navelとしても概ね成功だという評価を下したのではないでしょうか。

 

 

ただ私としては、面白かったはずであろうリリアーヌ√がないという事実が残念だった。やっぱり、どうしても。それが心残りだった。

 

赤と黒』を熟読した今なら分かります。どんなに面白いシナリオになったのだろうって。

 

でもそんなシナリオなんて、私以外誰も求めてなどいません。

 

ここまで言ってきてなんですけど…当たり前ですが脚本家の真意は不明です。

ですが、『赤と黒』の重要性や『リリアーヌ』を見ていると、リリアーヌ√を執筆したかったのではないかと思わずにはいられません。だって、リリアーヌのモデルになったマチルドは、『赤と黒』にてメインヒロインですからね。しかも癖の強い性格(これでもかなりマイルドな表現です)なのでこれ以上ないインパクトになったはずですから。

 

でもそれを、お客様は誰も望んでいない。故にリリアーヌ√はゴミ箱行きで脚本家の手によって始末されたという訳です。…一応、それだと彼女が可哀想だから、サブキャラの中でもリンデよりは待遇を良くしようとしたのではないでしょうか。

 

結局、私の結論だとリリアーヌ√は購入者の意向を汲み取った末に殺されたんだと思います。そりゃ~彼女からプライドがズタズタになる程見下され続けては苦痛でしかありませんから。でも、NTR好きの超ドMにはたまらない√だと思うんですよね。

 

最も、脚本家が作るので、氏が『赤と黒』のシナリオを参考にするかしないかは分かりません。ですがいずれにせよ、リリアーヌ√があればりそな√に匹敵するレベルでインパクトがあったと思います。でも、何度も言いますが、そんな√をお客様は望んでいない。

 

 

うーん…でもやっぱりリリアーヌ√が無いのは…残念。

面白そうなのに…そして益々リリアーヌの事が嫌いになれたのに!

 

…いや、その感情は彼女のモチーフとなったマチルドの性格を嫌という程思い知ったのだからそうなってしまうのだろう。

私が尊敬しているプロの脚本家である東ノ助氏なら、きっと彼女が好きになるような…それでいて面白くてインパクトのあるシナリオを執筆してくれたに違いない。…本当に惜しいなと思う。

 

 

 

十、終わりに(余談)

 

…という訳で、私の美意識を少しだけでも理解して頂けたでしょうか。少なくとも、エロゲ界隈の中でも相当重傷レベル…最早救いようもないレベルに捻くれた美意識だという事は重々承知しております。

 

だけど、これだけは胸を張って言いたい!

乙女理論とその周辺』という作品は、私から見たら本物の芸術作品だという事を!誰が何と言おうと関係ない!

脚本家自身の評判や面白さを捨ててでも、どこまでもお客様を大事にするという美しさは、もっと評価されて良い。その美しさが、この作品からは随所に溢れているのです。

 

本作品を商業芸術だと言わない理由は、ここまでの読みを可能にする作品を商業芸術だと言いたくない…という私のエゴと、このような脚本家の美しさも、充分芸術作品の美しさの一つだと言えるのではないかという点です。だから『乙女理論とその周辺』は本物の芸術作品なのです。誰が何と言おうと私にとって何よりも代え難い作品です。

 

 

…で、その視点を持たずに、やれエッテ√の文章が短いだの、やれルナ様に頼りきりだの、やれ恋愛描写やHシーンが物足りないだの言って点数を下げるのは”購入者の一人”として本当に悔しい。だから私は…いや私だけは批評家としてこの脚本家に百点を付けたいと思う。

 

とは言え、結局は本作の脚本を(自分なりに)あまりにも知りすぎた私が全面的に悪いのです。表面上だけ楽しんで適当に「りそな√が良かった」「エッテ√は短すぎる」とか言えば楽しめるのに…

(『あらゆる芸術は表面であるとともにまた象徴でもあるのだ。表面の下をさぐろうとするものは危険を覚悟すべきである。象徴を読み取ろうとするものもまた危険を覚悟すべきである。(ドリアングレイの肖像 序文)』)

…本当に困ったものです。もっと娯楽として気楽にエロゲを楽しみたかった…これからどうしよ(自業自得)

 

 

それでも、こんな私に救いのような言葉があるとするならば、

「美しさは、発見されなければならない」

という事でしょうか。

誰が言ったのかは…忘れた。

 

 

まあ芸術作品というものは、多数派の意見(「ここが作者の伝えたいところだな」等)が必ずしも脚本家の意見という訳でもないですから。勿論、「この作品は好きor嫌い」だけでも良いのです。色々な意見があって然るべきですからね。この批評も、そんな色々の中の一つという事で。

 

 

ここからは余談です。

 

こうして長々と批評してきた訳ですが、私より優れた素晴らしい批評家なんて沢山います。私には恋愛描写とかエロ描写とかよく分かりませんし、参考になる批評ばかりです。

 

私は、エロゲの批評文化は素晴らしいと思います。

ですがその反面、結局はエロゲの枠を飛び越える事などできません。

これだけ素晴らしい批評が沢山あるのに、エロゲの枠を飛び越えられない…だからエロゲは斜陽だの何だの言われる訳です。反論意見もありそうですが、新規顧客を獲得しようにも、大半の若者はソシャゲに流れ、既存のエロゲユーザーやメーカであってもソシャゲに移行する人やメーカが多いのが現状です。そもそもかなりのメーカーが事業停止か倒産してますからね。

 

少子化問題高齢…って訳でもないですが、実際ユーザーの数は減少傾向にあるのも仕方ないでしょう。じゃあ海外に目を向けると言っても、二次元のエロに対する締め付けは日本より一層厳しいです。

 

では既存作品で何とかするしかない…と言っても、こう…エロゲの枠を超えてSNS上の有名インフルエンサーにも注目されるような作品って、ほぼないじゃないですか(私が知る限りだと、ぬきたしだけ)。その理由は、エロゲメーカーがユーザーからの不評を恐れて安パイを取るようになったからではないのかと。

 

勿論全部がそんな作品だと言いたい訳ではありません。…でも実際、エロゲはエロゲの枠を飛び越えられないのが現実ではないでしょうか。じゃあ奇抜なエロゲを創って新規顧客を獲得しようとしても、今度は既存ユーザーが離れてしまいかねない…新規顧客創造は、それだけ難しい話なのです。

 

乙女理論とその周辺』は、既存ユーザーを大切にする東ノ助氏(とNavel)が安パイを取った。その決断は概ね成功したし私はその点を含め美しいなと思ったが、結果リリアーヌ√が消えた。その面白さが消えた事が、やっぱり私は残念でならない。

 

「《脚本家が書きたいと思う楽しさ(面白さ)》と、《お客様が求める楽しさ(面白さ)》との乖離をどう受け止めるか」

 

リリアーヌ√はまさしく、脚本家が(本心では)書きたかったものだろう。だがそれをお客様は望んでいない。

 

もしリリアーヌ√があればどうなったか。多少不評の声も上がっただろうが、今よりもう少し位は注目されたかもしれない。或いは劇薬が上手く作用してエロゲ屈指の神作になり得たのかもしれない。…いや、大抵は不評ばかりで、制作陣が「やるんじゃなかった」と耐え難い後悔の念を抱くのかもしれない。

 

でも、そんな安パイな選択は、エロゲ業界をマクロな視点で見ると得策かどうかは何とも言いがたい。

やっぱり私は、エロゲは自由であって欲しいと思う。エロだけではない、色々な表現(例えば酒やタバコとか)をふんだんに用いて、創作者が面白いと思う作品を創って欲しいと願わずにはいられない。

勿論、購入者から見たら「エロゲなんだから恋愛描写やエロに拘って欲しい」「楽しくて安定感のある作品を作って欲しい」と思う人の気持ちも分かる。メーカー側から見れば、商業的な面から売れる作品を創らないといけない(売れなかったりユーザーが離れると死活問題となるから、不評となり得る要素を少しでも削る)気持ちも分かる。

 

分かるけど…それでも私の願いは、エロゲという広いフィールドを用いて創作者が面白いと思うものを余すこと無く創って欲しいという事。そうなれば、昨今の表現規制が厳しい今だからこそ、エロゲ業界が再び注目されるようになるかもしれないのだから…。

 

そんな常識破りのクリエイターが、エロゲ業界から現れる事を信じて…余談は終わります。

 

 

…えー長すぎた。ま、結局何が言いたいのかというと、

 

『ユーザーを何よりも大事にする』という決断をした脚本家の姿勢に私は美しさを感じた。

 

だけど…

 

私だけは、氏が執筆したリリアーヌ√を見てみたかったです。以上。